四旬節 第4日曜日                       3月14日

 

暗い夜のことでした。

夜になってエルサレムの町は静かになりました。ある人は何回も振り向きながら町の道を密かにまた急いで歩きました。人に見られるのを恐れていました。その夜ナザレのイエスがどこで泊まっているかを知っていました。あの方の弟子は公に、堂々と友と歩いているのに、人の目をおそれるこの弱虫の私を受け入れてくれるでしょうかと、心配しながらその家に近づきました。もう一回心配そうに振り向きながらドアをノクしました。このような私を軽蔑するでしょうか。イエスを見た時、イエスの顔に軽蔑とか嫌がりの様子は全くありませんでした。かえってあの方は戸惑うことなしに、暖かい心で友のようにニコデモを受け入れられました。

これはイエスの驚くべき姿です。その時でも、今でも、人を退けることをしません。どんな生活の状態であっても、どんな暗闇から主を探そうとしても、どんな重荷を背負っても、いつも手を広げて受け入れます。

ニコデモはイエスの寛大さに感動しました。どこでも大群衆に尊ばれるこの方は、今の夜遅くまで私一人に、暗い夜に来た私に、こんなに時間を尽くしていただけるのは信じられないことでしょう。彼は不思議そうな目でイエスを見つめて、深く感動しながら、その言葉を聞いていました。

 “人の子は裁くために遣わされたのではなく、救うために来ました、一人も滅びないように、永遠の命を得させるためである”。ニコデモは心から安心して喜んでいました。“悪を行うものはみな明るみに出るのを恐れるが、真理を行うものは光のほうに来る”と。イエスの言葉が一つ一つ心の中に流れ込みながら、ニコデモの心は温まりました。“私もいつか光に出られるでしょうか。やはり光に出たい”と心の中で考えを抱きながらイエスと別れて、暗い夜に消えてしまいました。

 

何か月後のことでした。イエスは何回も転びながら最後の力を絞ってゴルゴタの丘を登った。周りに立っている人々はイエスをあざ笑って罵った。群衆の中に一人の男が立っていました。事の流れを見て、心を痛みながらイエスの最後の言葉を聞いていました。“私は乾く”、“父よ、彼らを許してください”。“エリ、エリ、レマ サバクタニ、わが神よ、わが神よ、なぜ私を見捨てたのか”。“父よ、あなたの手に私の霊を委ねます”。最後に兵隊の幹部の言葉:“まことに、この方は神の子でした”と心の中に響いていました“。太陽の力が消えて地震が起こった時、人々は恐れて消えた。

その時、“彼は光に出ました”。イエスの体を降ろすために彼は十字架にはしごをかけて、人の見える前ではしごを登りました。弟子たちがみな遠くまで逃げた時、ニコデモはイエスの血だらけな体を自分の腕にもって抱きました。 

ウルバン神父

 

 

 

2021年3月7日 四旬節第三主日     レイナルド神父

· ヨハネによる福音書 2章13-25

 この福音書の話を聞いた人は誰もが少し驚いてしまうと思います。イエスが鞭を持ち人々を怒りを含んだ声と絶望感で追い出した話など聞いたことがありません。イエスらしくありません。私たちが大いに期待する辛抱強くやさしく憐れみ深い人が、突然自制心を失ったかに見えるからです。他に考えられることはありますか?いえ、ないのです。あなたたちは見過ごしたかもしれませんがイエスはある理由を語ります。

 

 初めて神殿に上った少年イエスのことを覚えていますか?父母と一緒でしたが神殿に心を奪われてしまい、そこに留まったのです。両親は帰って行きましたが、イエスがいないことに気がつき、走り戻ってきました。そこで見たのは、イエスが年上の人たちと質問したり答えたりしながら座っている姿でした。

 

 私たちの教会において神殿の意味にこれ以上のものはありません。それは神のシェキナーと呼ばれたもので、そこはこの世における神の最高の居場所、神の住む最も神聖な場所であり、神に礼拝がなされる大切な場所でした。多くの苦しみ、砂漠や辛い状況をくぐり抜けてきた一群の人々が最後にたどり着いた小さな選ばれし土地。そこに神殿、美しい神殿が建てられ、神のシェキナーが栄光のうちにきらめき、はるか遠くから訪れたすべての参拝者はこの世で神の最高の居場所である素晴らしい神殿を見たのです。

 

 さて成人となったイエスはその神殿に入り、そこで何が起こっていたのかを目撃します。そこで商売がされ人々は貧欲に金儲けをしています。何のために?父なる神のシェキナーのために?「父の、父の家を家畜市場にしてはダメだ!」イエスはこんなのは決してされるべきではないと大声で訴える少年です。怒りでほとんど許すことができません。そこで鞭を手に人々を蹴散らします。もちろんこの人たちだけが追い出されるべきではなく、そこを仕切っていた人々が問題なのです。これを許可していた祭司長たちが分っているべきだったのです。場所をわきまえず金儲けをしようとしていた欲深い小者たち。イエスはそれを承知していたので答えはとても不思議なものでした。祭司長たちが来て「なんでこんなことをするのか、どんな権威があるのか?」と言うとイエスは不思議なお答えをされます。「この神殿を壊してみよ。三日で立て直してみせる。」

 

 イエスはご自分の体のことを話しておられたのです。周りにいる人々をご覧になりながら、悟っていまた。もしこのようなことが神の神殿でされたなら、イエスの心の底にあった大きな恐れは本当でした-いつの日か人々は彼を捕らえ生贄とし丘の上で磔にする。そして生まれた日と同様にはっきりとわかっておられたに違いありません。

自分が来たのは、何と悲しい・・・

しかし、聖書にあるご自分の話と神のシェキナーをご存知でした。神、父ご自身がイエスを送り、その命と引き換えに世の罪を贖い、そして人類と神との新しい関係の、世界の果てまで到る章を開くことを知っておられました。なぜなら自分がメシアであることを理解し始めていたからです。父の選ばれし者、神のシェキナーの平和と喜びを再びもたらす者、そしてそれは地の果てまで届いて行くのです。

そのように福音記者は彼のこのことを書き記します。

 

 イエスが過ぎ越し祭の間イスラエルにいた時、多くの人々はイエスのされていることを見て彼の名を信じ始めました。しかしイエスは彼らをすべてご存知でしたし、人間の性分を語る必要もないので敢えて彼らを信用されようとしませんでした。神ご自身が人間となります。人間であることが何を意味するのか、苦痛に耐え、期待は打ち砕かれ、最後に死に直面することを彼が知らなかったとは誰も言わないでしょう。イエスは心の中でそれを知っていました。これがイエスの大きな気持ちのわけです。「どうして、どうして愛することを学べないのか。なぜこのような行いをするのか、どうして先に行かねばと思うのか、なぜ人々は傷つけ合うのか?なぜ人々は神の偉大な寛大さを腐った市場に変えてしまうのか?」神への愛がイエスを突き動かします。十字架上から言われたように、神への愛が理解をします。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。」

 

 そうです、今日、私たちはここでイエスに出会います。ここで自身の人生を見つめ始めます。メシアがこの教会で私たちのところに来られたからです。私たちと一緒にいるために来られたのです。私たちを勇気づけるために、癒すために来られたのです。神のシェキナーは今やイエスそのものです。そしてこのことは今日の朗読の意味です。「救い主はどこにいますか?」あなたの中に、たがいの中に、共同体の中に、そしてここにおられます。次に私たちは何をしようとするでしょうか?イエスの時代の人々のように「しるしを見せてください、奇跡をおこしてください、派手にいろいろやってください」と催促しますか?

 

いいえ、イエスはわかりやすく言われました。「今日、明日、いつも、そして世の終わりまであなたと一緒いる。」あなたの人生とは何でしょうか。それはイエスと共に歩き、語り、感化されることです。そうすることであなたも人生を喜びと、平和と、そしてなによりも新しい愛と共に、神に向かってではなく、イエスに向かってでもなく、お互いに向かって歩むことができるのです。

2021年2月28日 四旬節第二主日(マルコ、9章2~10節)

 Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

今日の福音書の個所は、イエス様のご変容の出来事を語っています。そしてこの個所を理解するには、前後の出来事を踏まえる必要があります。それで、簡単に流れを遡ってみましょう。フィリポ・カイザリアで、イエス様は御自分のことをどう思っているか尋ねます。ペトロが「あなたはメシア(キリスト)です」と答えます。すると誰にも話さないように言いますが、それでいてイエス様は、御自分の受難について公然と話し出します。そこで今度は、ペトロがイエス様に話さないようにアドバイスします。するとイエス様は、それは人間の考えであって、神様の考えではないと激しく叱り付けます。

「イエス様がキリスト(メシア・神の子)である」とはどういうことなのでしょうか。実は、ペトロを始めその当時のイスラエル人すべてが知っている「メシア」という存在のイメージを、イエス様は根本から変えようとしています。人間的な考え、それは誰もが持っている同時の人々のメシア観なのです。しかし、神様がイエス様を通して示し、教えようとしたメシア観はまったく違ったものでした。これを最も明確に示すものが十字架の死と復活だったのです。ですから、公然と受難について語り始めたのです。

こうしたことを背景にイエス様の御変容の出来事があります。そこで、神様は、神的存在と思われていたモーセとエリヤと共に、イエス様に神様の輝きを示させます。イエス様は受け身で、弟子たちも受け身で、それを見させられます。ここで、世の終わりに来るメシアと受難のメシアを区別させようとしています。この出来事は、イスラエルの人たちのメシア観、世の終わりと栄光のメシアというメシア観と、神様の示そうとする、歴史の中で苦難を受けて殺され、復活するメシア観を分けて見るようにさせる出来事なのです。

四旬節は洗礼志願者と共に過ごすときです。洗礼志願者は、イエス様がキリスト(メシア)であることを信じそれを、聖土曜日には宣言しようと知的にも霊的にも準備しています。私たちも彼らと四旬節を共に過ごそうとしているとしたら、私たち、洗礼を受けた者も、もう一度イエス様がキリストであると信じたその信仰を見直してみようではありませんか。何か人間の思いが付け加わって、神様が示そうとした姿からずれてしまっているかもしれません。この見直しの上に立って、聖土曜日に洗礼を受けた時のような、初めてキリストに出会った時のような新たな気持ちで、聖土曜日の「洗礼式」の後に行われる「洗礼更新式」を受けるようにしてみませんか。

では、どのようにしたらいいのでしょうか。ご変容の場面で神様は私たちに向けて言葉を残しています。「これは、私の愛する子。これに聞け。」私たちが今なさなければならないことは、この世に来られて来られたイエス様にもう一度目を注ぎ、その言葉にもう一度耳を傾けることではないでしょうか。         湯澤民夫+++

 

 

2月21日四旬節第一主日 メッセージ

昔はよく街角で「神を信じなさい!洗礼を受けると救われます!」「信じる者は救われる!洗礼を受けたものに救いが与えられます!」とアナウンスが流れていた。特に1999年の世紀末問題では似たようなキリスト教系の宗教や新興宗教・新新宗教・カルト教が人の不安に付け込んで、救いをちらつかせて人々に恐怖からの救済を伝えていた。私は同じキリスト教を信じる者として、その伝え方に詐欺めいたものを感じていた。確かに文言は間違いではないのだけど、メリットしか伝えない手法は詐欺師の常とう手段。実際私たちの信仰はメリットばかりではない。

私たちは洗礼を受けるとバラ色の人生が待っているように受け止めがちだが、実際皆さんの生活がバラ色である人はそれほど多くないだろう。日常生活が多くの問題を私たちに投げかけている中で、信仰と生活の間でもがいているのが一般的でしょう。

四旬節第一主日の福音ではイエスが誘惑に合うシーンが読まれる。何故洗礼を受けたのに誘惑に合うのだろう。そもそも洗礼の時に天が開け、霊がイエスにやってきた後、さっそくその霊に導かれて生活が面倒な荒れ野に連れていかれた。今回の誘惑もバラ色なイエスの人生であればあり得ないが、実際霊の導きと支えにより乗り越えた。今日のメッセージでは洗礼を受けることは決してバラ色ではない事を示されたのではないだろうか。それよりも霊の導きに従う生き方そのものが洗礼を受けたたまものであることを強調しているのではないだろうか。アダムは蛇の誘惑に負けてエデンを追放される。霊ではなく自由意志に従った結果である。イエスは自由意志に加え、サタンの誘惑に霊の導きをもって乗り越える。洗礼を受けることは自由意志と霊の導きに人生をかけることであり、特に聖霊に耳を傾ける事なのだろう。実生活の中でよいことが起こるのが洗礼ではなく、洗礼は霊の導きを知りそれに耳を傾けて生きる力が与えられる恵み。だから日常生活でも不幸が起き、多くの問題が起き、誘惑があり、傷つき、泣き、倒れることもある私たちの生活は当たり前で、そのことが起こったから「神様などいない」とご利益信仰を掲げるのは私たちの信仰ではない。洗礼による力は諸問題を神の価値観で乗り越えるため霊に導かれるということを知る力なのだろう。つまり日常生活の問題は霊を知り霊に生かされていることを知る神の誘惑の場であるということで、そこから逃れて生きることは社会集団に属する私たちの生き方ではないことが言えると感じている。皆さんの日常生活こそ神と出会える生々しい現場であることを今日は知らされたことだろう。だから不幸を悲しみながらも、乗り越えるための希望を聖霊に願いながら歩まなければならない。それに誠実であれば、私たちは救われる。

消してメリットだけではない。その過程こそ最も大事であることを忘れて「洗礼を受けると救われます!」と飴だけを渡すようなことは避けねばならないことに気づかされる。

もう一度私たちに与えられた洗礼を洗礼志願者と共にこの四旬節中に思い起こすことを始めましょう。

 

                                 松村 繁彦神父

 

 

“私は望む、清くなれ”。                 214日  ウルバン神父

 

皆さんは今日の福音の言葉を聞いたことがありますか。誰かが震えながら、泣きながらイエスに近づいてその前にひれ伏しました。ひどい皮膚病に傷つけられた顔を見上げようとして言いました:主よ、お望みでしたら、私を治すことができます。その時どんな心、どんな顔、どんな目でイエスを見たでしょうか。暗闇と切望の中で光は一つしかありませんでした、それはイエスでした。

 

十数年前に私は十数人の中学生と共に外国へ行きました。深い田舎の中で私たちはバスを待っていました。バスが来ましたが、すごく混んでいました。それなのに、人々は私たちの可愛い日本人の女の子供たちを見た時中へ詰めて親切に乗せてくれました。私たちが安心して外の景色を眺めた時、バスの中ですごい叫び声が聞こえた。次々と人が叫び出して、最後にバスのすべての人は騒いでいました。田舎の真中で、何もない所でバスが止まって、一人の男の人は蹴とばされて外へ追い出されました。後で言われたのは:まゆ毛が少し薄かったので、らい病人だと思われたのです。本当に病気だったでしょうか。バスはまた動き出して、寂しい所で追い出された人はだんだん見えなくなりました。あの方の顔を、孤独と恐れにあふれた顔を忘れませんでした。

 

イエスの前にひれ伏した人も心配して、それでも希望をもって主の顔を眺めながら待っていました。この方も皆と同じく石を拾うでしょうか。“汚れた者、人と神に嫌われた者、あっち行け”と言うでしょうか。いえ、そうではありませんでした。イエスの顔は哀れみにあふれ、また声が聞こえた。“私は望む、清くなれ”。その時病人はどのように感じたでしょうか。彼にも天は開き光が見えたでしょう。僕は捨てられたもの、人のくずではない。僕も愛されていると深く感じて喜びにあふれ、それだけではなく、イエスは手を述べて彼に触れた。何年も人に逃げられた人は、初めて人の温かい手を感じました。その時、体の傷だけではなく、もっと深い傷、心の傷はイエスの手に癒されたのでした。イエスの言葉は本当です:”私は裁くためではなく、救うために遣わされた“。イエスは今日も私たちを救うために来ます、私たち一人一人を見て話します:”私は望む、あなたの救い、あなたの喜びを。“

 

上に話したバス旅は森の中にあるらい病人の村への旅でした。ある子は初めて病人を見た時、ショックになって倒れてしまった。一日彼らと共に暮らしたあと、別れの時が来ました。言葉は通じなくて、あげるものも何もありませんでした。その時子供たちは突然、別れの涙を流しながら手を伸べて病人を抱き始めた。村の人たちはびっくりしました。あの方々にとって最高のプレセントでした。別れはつらかった。村から離れた時、皆の姿はだんだん小さくなって、とうとう見えなくなったが、私たちの心の中にずっと生きていました。寝る前、皆で分かち合った時、皆は喜んでいました:イエス様が心の中に生きたら、私たちの手もイエス様になります。どこかの人は私たちの手を待っています。